さがしもの

日々思ったことを書いていきます。

自分のためには頑張れない人~官兵衛の生き方⑤~

おはようございます。

ほそやんです。

 

前回、本能寺の変が発生したときに

発した不用意な発言で秀吉から疎まれた

官兵衛の話をしました。

 

官兵衛シリーズ1回目はこちらから

k-hosoyan.hatenablog.com

 

43歳で家督を息子の長政に譲った

官兵衛ですが、秀吉からは国元に

帰ることを許されず京都大阪で

生活をさせられます。

若手社員のお目付け役兼窓際族として

いらんことをしないように社長の

目が届く社長室におかれた

ような感じです。

 

官兵衛自身がそうであったように

黒田家は家督を早めに譲るのが風習なのか

権力欲の薄い二人がたまたま続いたのか

どっちなんでしょうね。

長政からその下の代への移行は失敗している

のでたまたまかもしれません。

 

閑職に追いやられつつも一定の地位を

保っていた官兵衛は秀吉の死後、

関ヶ原の合戦時にたぶん人生で初めて

自分のための本気を見せます。

官兵衛54歳のときです。

 

黒田家の当主である息子長政は加藤清正らの

武断派に属し文治派の石田三成は大嫌いでした。

従って、当然に黒田家は東軍に属します。

息子長政は関ヶ原のど真ん中で

裏工作の面でも戦闘の面でも大活躍をします。

裏工作ばっかりやってきた

父親に反発するかのように。

 

主力部隊は息子長政が関ヶ原へ連れて

行っているため、官兵衛は大分中津の

自分の所領で少数の部隊で留守番をしていました。

九州は比較的西軍に属している武将が多く

敵中に取り残されたような状態でした。

 

一見ピンチですが、官兵衛には一世一代の

チャンスに見えていたのです。

加藤清正と連携しながら西軍についた

九州の大名を制圧しだしたのです。

普段始末してため込んでいた資金を

一気に放出して軍隊を作り出しました。

 

閑職に追われ、自分の才覚を試してみたくて

うずうずしているのに、それがゆえに疎まれたので

発揮する場所がないまますごした10年は

退屈で退屈でストレスいっぱいだったはずです。

朝鮮出兵だって関ケ原だってもっと自分なら

こうするのにっていうのがあったはずです。

 

主力は関ヶ原へ行っているのは相手も同じなので

官兵衛は自分であれば九州は手早く制圧できる

という自信があったはずです。

中央で豊臣方と徳川方で争っている隙に

第三極になって自分のちからを試そうしました。

 

結果としては関ヶ原は親の気持ちなどつゆ知らぬ

息子長政の大活躍でたった一日で終わってしまい

官兵衛はさも家康のために九州の地ならしをして

いただけのように装って中津へ帰っていきました。

この辺のあきらめの良さというかさらさらした

判断が官兵衛らいしいです。

 

権力欲のために起こした行動であれば執着したはず

ですが、あくまでも自分の力を示すために

起こした行動なので、これだけ制圧できることが

証明できればそれでよかったんだと思います。

 

もしくは、

今まで、誰かのために自分の力を使ってきた

官兵衛が初めて自分のためにちからを使ってみて

やっぱり自分のためには頑張り切れない自分の

限界をみて満足したのかもしれません。

 

関ケ原の後、長政(32歳)と官兵衛の会話が面白いです。

(長政) 「父ちゃん、家康さんが俺の手を握って

      ありがとうって言ってくれたよ!」

【父ちゃんと違って俺はちゃんと上司に認められたよ】

(官兵衛)「握ってもらった手はどっちだ?」

【こいつ、俺の気持ちを全くわかってねぇ】

(長政) 「右手です。」

【そんなん聞いてになにになるねん?父ちゃん嫉妬か?】

(官兵衛)「その時左手はなにしとってん?」

【それなりな息子だけど、ここまで言ってもわからんって

 ことはそこまでの息子やなやっぱり。俺が九州で暴れて

 るねんから家康さえおらんかったら黒田家が天下を

 とっていたかもしれんでしょ?】

(長政) 「えっ!」

【まさか左で刀握って家康殺して俺も死ねってこと?】

 

官兵衛が本気で言ったとは思いませんが、

官兵衛と長政の関係と二人の性格を

端的に表すお話です。

本能寺の変の時の秀吉との会話と合わせて考えると

会話の相手のレベルで会話が成り立たなくなるのも

これまた面白いです。

 

官兵衛ってこういう人を試すというか、

自分の頭の回転の良さをひけらかす癖が

あったんでしょうね。

反対に長政の素直さと自己顕示欲の強さ

が父親からの反発できているのがよく

わかります。

 

官兵衛って権力欲とか物欲がなく

自分の力を試すことができればそれで

よかったんだと思います。

むしろ、政治的な足の引っ張り合いとか

しなきゃならないぐらいなら、

自分がトップになるよりも自由に

働かせてくれる人の下にいるほうが

性に合っていたと思います。

軍師官兵衛と呼ばれる所以です。

 

秀吉もそれがわかっていたはずなのにねぇ。

たぶんあともう一回で終わります。たぶんね。

 

じゃ、また!!

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