さがしもの

日々思ったことを書いていきます。

報酬を二の次にさせる働き方~官兵衛の生き方②~

おはようございます。

ほそやんです。

 

前回、黒田官兵衛が小寺氏から織田氏

所属を変更した時の話まで行きました。

新装版 播磨灘物語(2) (講談社文庫)

新装版 播磨灘物語(2) (講談社文庫)

 

その後、播磨攻略を秀吉とともに取り組む

ようになった官兵衛ですが、

小事件と大事件が起こります。

小事件は荒木村重による有岡城幽閉で

大事件は明智光秀による本能寺の変です。

 

織田側についたのが1577年7月(息子を人質に差し出す)、

1578年10月から1579年10月までの1年間有岡城に幽閉され

1580年1月に小寺氏滅亡

1581年6月鳥取城攻め

1582年4月から備中高松城攻めしている最中の

1582年6月に本能寺の変勃発。

この5年間は大忙しで秀吉も官兵衛も

輝きまくっていた時期です。

秀吉40歳官兵衛31歳からの5年間ですから

まさしく脂が乗りきっている年代ですよね。

 

地方の老舗企業の若手番頭と全国大手企業の

営業本部長がその地域を席捲している状態です。

事件はありましたが、楽しかったと思います。

いままで力を奮うにも元手がなく思うようにできなかったのが

秀吉という種銭を得ることで自分がやりたいことを

どんどんやれてそれが成功していく。

 

この時の官兵衛は無報酬でもがむしゃらに働いたと思います。

金銭的欲求ではなく、単純に自分の才能が試すことで

承認欲求が満たされればそれで充分だったはずです。

 

ちょっと官兵衛から脱線。

秀吉のすごさって自分は物欲の塊なのに

黒田官兵衛竹中半兵衛、弟の秀長をはじめとする

承認欲求だけで働く部下がたくさんいたことです。

なんでも自分でやるのではなくて、その人に応じて

必要な権限を与えるのがうまかったんでしょうね。

それでいて手柄は自分のものにできる狡猾さと

それを部下にねたまれない明るさがないとできない芸当です。

 

そんな官兵衛にとって人生最大の危機ともいえる

事件が有岡城幽閉です。

 

姫路を本拠地としつつ備中高松城岡山市)の別所氏を

攻めている最中に有岡城伊丹市)の荒木村重

毛利方へ寝返ったために、秀吉と官兵衛は敵に

挟まれる形になってしまいました。

ちょうどそれぞれの場所が100kmずつぐらい

離れていると思ってください。

とくに姫路から伊丹は平たん地で繋がっている上、

今の大阪城があるところに立てこもる石山本願寺

連動されると織田本体との連絡が取れなくなります。

 

なんとか事態を復旧させようと

いろんな武将が荒木村重に寝返りをやめるように

説得しますがなかなかうまくいきません。

俺がやらなければ誰がやるとばかりに

黒田官兵衛も説得に向かいます。

 

そのあとの話は次回。 

3回では終わらないですね。

たぶん倍の6回ぐらいですね、これは。

 

じゃ、また!!

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